間宮先生の「日蓮聖人の宗教的自覚をめぐる諸問題」は第四回目を迎えて、「「超越者の自覚―身延の日蓮聖人―」というテーマで1月25日に開催されました。一念三千の発見・自らの謗法罪の発見という二つの発見を通じて「宗教者としての自立」を果たした佐渡期に続き、身延期の日蓮聖人について考える今回は、「なぜ身延に?」という問いから始まりました。
間宮先生は、佐渡における逆境をむしろバネにして二つの発見を通して自らを開示した日蓮聖人は門弟達との結びつきも新たにしたとして、鎌倉での第三次諌暁に失望した聖人が身延入山を選んだのは山中で佐渡期の境地を継承し発展させようとしたのでは、と見るのです。そしてその見通しを、上原專祿の論考「日蓮身延入山考」での見解と詳しく比較検討していくことで、身延入山を望んだのは「佐渡期の継承と展開」という積極的な動機によるものと確証していきます。
「経文にたがわず此の度々の大難にはあいて候しぞかし。今は一こうなり。いかなる大難にもこらへてん、我身に当て心み候へば、不審なきゆへに此の山林には栖み候なり。」(『三沢鈔』)間宮先生はこの日蓮聖人の言葉から、聖人の法華経の行者としての「心み」が完了し、聖人が仏と同じの智慧をもつ「智人」という超越者の自覚(=「師」の自覚)を持たれた、とみます。そして、その超越者の自覚から「日蓮の慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(『報恩抄』)との宣言もあり、その自覚からの教導こそが聖人にあっては身延の地での「三大誓願」の実践に他ならなかった、と結んで第四回目の講義を終えられました。
次回は、「師」自覚をあらためて論じてた、愚者なればこそ智人たりうることをテーマに第五回「「愚者」と「智人」―日蓮聖人にみる逆説性―」が2月22日に開講されます。1回だけの受講でも、日蓮聖人を深く理解するヒントが与えられる刺激と熱気溢れる講義ですので、ぜひ当日受講をお勧めします。 (編集部)