去る6月24日(土)、東北大学教授の佐藤弘夫先生による1日集中講座「日蓮聖人とその時代」が開催されました。会場の祖師堂地階ホールは60名ほどの受講者でうめられ、午前10時半から午後5時過ぎまで、90分間×3時限の集中した講義と一時間の熱気に溢れた質疑応答が続き、刺激的で充実した1日集中講座を終了することが出来ました
佐藤先生の3時限の講義は、「1なぜ鎌倉時代に卓越した宗教者が叢生したのか」、「2鎌倉仏教の救済構造」、「3親鸞と日蓮―伝統に反逆する信仰者たち」というサブテーマにそって行われました。以下、その要約を各時限ごとにいたします。
第1時限 なぜ鎌倉時代に卓越した宗教者が叢生したのか
まず講義は「鎌倉仏教研究の現在」の確認から始まった。現在の日本仏教研究の中心は、「鎌倉新仏教」を最高とした中世仏教から近代仏教へ移っており、その近代批判の視座から見るとそれまでの「鎌倉仏教論」とは、西欧の「近代化」や「合理化」を絶対視した歴史学界の見方によるもので、1970年代以後の「モダンからポストモダンへ」の研究動向によってすでにその「語りの枠組み」を消失しているという。替わって注目されているのが、人は時代と地域によって異なる世界を生きている、とする「コスモロジー論」である。
このコスモロジー論の視座から見ると、中世鎌倉の世界は一元的な古代的世界観から変動して二元的な中世的世界観の中にある、という。古代社会では他界(超越的世界)と現世はほぼ重なっていて(一元的)、仏教への期待は「霊験(功徳)」にあったが、中世鎌倉の信仰世界では大きな理想の他界(浄土)と小さな惨めな現世に分かれて(二元的)、現世から他界への「救済」が大衆レベルでの仏教への期待となる。つまり、生死を超えた救済を追求する「鎌倉仏教」の叢生は、こうしたコスモロジーの転換によって可能となり、現世を超越する「往生」「成仏」という仏教の核心思想の受容が行われた、といえる。
しかし、14世紀以降になると不可視の浄土のリアリティは薄れて現世の存在感が強まり、近世に入ると人々の願いは遠い浄土への旅立ちという救済ではなく、死後も身近な人々と交流しながら人間世界に再生することを理想するようになる。また、死者を慰める主役も、仏から人(遺族)に変わり、墓参りなど長期の供養が重視されていく。こうした現世的なコスモロジーは近代に入っても続き、近代では近世にはまだあった仏の姿が消えて、東北の「ムサカリ絵馬」や「供養絵額」「花嫁人形」に見られるように、現世の生活がそのまま投影された豊かな家族団欒の姿が死後の理想と考えられた。
近代においてのコスモロジーは、近代仏教のあり方にも大きな影響を及ぼし、それは日蓮の『立正安国論』解釈にも顕著にみることができる。『立正安国論』に述べられた立正安国思想には、①現世的な「国土の客観的な安穏の実現」(安国)と②浄土的な「個人での信仰的な救済の成就」(立正)という2つの論理がある。しかし、近代においては彼岸のイメージの縮小によって、日蓮が最重視した「実乗の一善(法華経)への帰依(立正)」の論理が忘れられてしまい、もう一つの政治レベルの社会変革・国家改造の論理が『安国論』の主題として受容されていったのである。
第2時限 鎌倉仏教の救済構造
鎌倉仏教における救済の構造を見ていくために、その歴史的・文化的な土壌の解明を通して、祖師たちが同時代のいかなる課題を引き受けて決断して創造していったのか、祖師たちが直面したリアリティを再現する必要がある。その中世信仰の土壌を見る手がかりとして、中世庶民が極楽往生を願って建てた「板碑」という信仰形態、また「補陀洛渡海船」や「来迎図」「曼荼羅図」「祖師の霊廟」「霊場」などがある(レジュメの写真にて説明)。
伝統仏教の救済論は、「此土―浄土」の二重構造において浄土(あの世)への往生・成仏を救済とするが、その仲介者として浄土へと誘う「垂迹する仏たち」(聖人・神祇・仏像)がいる。垂迹として仲介者は、弘法大師、八幡神、生身仏、聖徳太子、慈恵大師などである。また中世の伝統寺院は、独立採算の荘園領主の財政基盤として「奥之院」中心に「霊場」を作り、彼岸への通路としての霊場を宣伝した。板碑の建つ勝地も霊場となり、地域ごとのミニ霊場が叢生した。しかし、こうした「彼岸への回路としての霊場」では、様々なタブーや穢れなどなどを理由に女人禁制や排除される人々が作られ、また財力で阿弥陀堂を建立し金銭で救いを贖うような特権化や階層化も進んでいった。
こうした「霊場の宗教的意義」を否定して「垂迹」を排除した救済論を述べたのが、法然である。法然は、真実の浄土に往生できるのは本願念仏だけと主張して、神祇不拝を説くとともに既成仏教の権益の解体を促した。そのため念仏の弾圧を必然的に招いて、宗教問題にとどまらず政治問題となって法難を引き起こした。また日蓮も「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と専修題目を主張して、熱原法難では庶民層に広がった門徒集団にも弾圧が及んだのであった。
第3時限 親鸞と日蓮―伝統に反逆する信仰者たち
法然は、「み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり」(『選択本願念仏集』)として、弥陀の本願として弥陀が選び取った「念仏」以外では往生ができないとした。親鸞は、それを「念仏以外では救われない」と受け取った。こうした法然・親鸞の経典理解の独自性は、論語の「事(つか)ふることあたはず、人いづくんぞよく鬼神に事へむや」を引用して「神祇不拝」を説いた『教行信証』にもうかがえる。これに対して伝統仏教側は、「第五に霊神に背く失。念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず~権化の垂迹に至っては既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。」(『興福寺奏状』)と、その神祇不拝を批判した。そこにはまた双方の「平等」観の相違をみることができる。
日蓮は、教主釈尊が「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と述べて、「文底秘沈の題目」という救済の原理は、論理を超えた「信」においてのみ到達できるとした。そして、法然と同じく、霊場信仰という庶民の救済の場から排除される人々(女人や非人)や金銭で救いを贖う差別的なあり方を批判して、題目専修の道を開いたのである。
仏教の原点として抜苦与楽としての民衆救済があり、その仏の大慈悲を発見した信念を貫くことは、往々にして伝統との間に葛藤と軋轢を生じさせる。親鸞と日蓮もまた、この葛藤の中での決断によってその独自の道を歩み始めたといえる。親鸞は「念仏者は無碍の一道なり~信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆへに、無碍の一道なり」(『歎異抄』)と述べたという。日蓮も「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん~我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」(『開目抄』)と述べて、数々の法難に屈することなく信仰を貫くをことを宣言した。こうした親鸞と日蓮の決断とは、それまでの学者的存在から新たな信仰者という実践的存在へという、論理を超えた飛躍を示したものといえるだろう。
(以上 講義要約)
以上の講義を受けて、一時間ほどの質疑応答が行われました。その質疑では、佐藤先生が挙げた『立正安国論』の2つの論理のうち、「国土安穏の実現(安国)」よりも「実乗の一善への帰依(立正)」を日蓮聖人が重要視したというが、本門戒壇論から見ると少し違うのではないか、また救済をめぐっての「即身成仏」とは何か、時代によりコスモロジーが転換するきっかけは何か、など質問が相次いて活発な質疑と意見交換により大いに盛り上がりました。あらためて、佐藤先生には長時間にわたり広がりのある刺激に充ちた講義を頂きまして篤く感謝申し上げます。また、聴衆の皆さま方も熱心に受講頂き、質疑を盛り上げて頂きまして有難うございました。以上で報告とさせて頂きます。
(報告:澁澤)