1.当学林の学是
法華コモンズの学是は日蓮仏教の「再歴史化」(現代的蘇生)で、そのために日蓮遺文
その他を「学ぶ」ことが当学林の当初からの主目的であった。その意味で、「実践」は、当学林が直接的にめざすものではなかった。とはいえ、当学林は、日蓮仏教の「実践」と無関係ではない。否、そのための学び舎が当学林であるというべきであろう。昨年の一月にジャーナリストで歴史研究家の半藤一利が亡くなった。彼は、生前に、「今の日本人一般人のレベルが下がっているから、いいリーダーも出ない」、「歴史の危機への対応力が減っている」、「では、どうしたらいいのか?」、「懸命に勉強する以外に道はない」と、あるインタビューで言っている。法華コモンズも、立派な「実践」をする為には勉強を続ける以外に道はないのであろう。
・法華コモンズを作る私の動機
「今の時代に(本化仏教を)展開するのにはどうしたらいいのか。その計画を私は持っています。私はどこの宗派にも属したくないんですよ。だけど、本化仏教を娑婆の中でどう生かすかというグループを作ろうかと思っています。一宗一派を作るんじゃなくてね。いろいろな人を集めて、仏国土成就のグループを作りたい。」(2002年発行の『福神』第9号所載の拙稿「再歴史化する日蓮仏教」から)(2016年発行の『法華仏教研究』第22号178-205頁所載の澁澤光紀「本化ネットワークから法華コモンズへの軌跡」の冒頭部分から重引)
2.社会成仏の宗教
では、日蓮仏教の「実践」とは何か? あれこれと日蓮遺文を紐解くまでもなく、日蓮仏教の眼目が個人的には題目受持による名字即成仏(法華経の題目を唱えるだけの修行で、修行の階梯である「六即」のうちで下から2番目に低い修行の位)であり、社会的には「立正」による「安国」(仏国の成就)=社会成仏にあることは明らかである。なかでも、日蓮仏教の特色は、社会成仏にあるといえよう。だが、それがわかったところで、直ちに「立正」による「安国」が成就するわけではない。このうち、「立正」については教学の専門家に任せて、ここでは「実践」についてだけ語ろう。
- 日蓮仏教の個人成仏とは、身口意三業にわたる題目受持による名字即の成仏である。
・これを証す日蓮遺文はあまたあるが、ここでは有名な遺文のみを紹介する。
遺文「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り與へ給ふ。」(観心本尊鈔自然譲与段)
遺文「迹門十四品には未だ之を説かず、法華経の内に於いて時機未熟の故か、此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於いては、佛猶文殊・薬王等にも之を付属し給はず。何に況や其の已下をや。但地涌千界を召して、八品を説いて之を付属したまふ。」(観心本尊鈔四十五字法体段のあと)
遺文「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。」(観心本尊鈔末文)
遺文「かの像法の末〔の二十四文字の修行、括弧内の挿入は筆者、以下おなじ〕とこの末法の初〔の題目五字の修行〕と全く同じ。〔威音王佛の像法の時の〕かの不軽菩薩は
初随喜の人なり。日蓮は名字の凡夫なり。」(顕仏未来記)
- 日蓮教の社会成仏とは「立正」によって「安国」の世(仏国)を創ることである。
・この場合、「立正平和の会」が言っているように、宗教の正邪以外の社会的正義も含めた「正」の認識が重要になると思われるが、「何が社会的正義なのか」を巡って、異論が出やすいと思われる。
・また、「立正安国」というと「本門の戒壇」建立の暁のことと思いやすいが、「本門の戒壇」を築壇ではなく、仏国(「理想の共同体」)そのものと考えればよい。政教分離の今では、「国立戒壇」の建立は無理だし、不要でもある。
・だが、日蓮仏教は、個人成仏や来世往生を願う他の仏教とも、人間に内在する仏性のみに頼って「教」(仏種)を疎かにする野狐禅や昨今のヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント(人間の潜在能力活性化運動)とは明らかに異なる、という点は重要である。
・遺文に、「命限り有り、惜しむべからず。遂に願うべきは仏国なり」(富木入道殿御返事、真蹟なし、録外)とある。
・これについて、『法華仏教研究』誌の編集長の花野充道は、「大崎ルール」(真蹟遺文中心
主義によって天台本覚論的な日蓮遺文を排除しようとする大崎学会の研究ルール。これには、判別が主観的ではないかという批判もある)には合わないが日蓮の宗教の特質を表わした銘文として、次のように紹介している。
「日蓮の宗教の特質を一言で言えば、『安国を実現するために立正の戦いをする』という 論理である。悟りを求めて、一念三千の観念観法を修しているだけでは、現実の国家の矛盾は何も解決できない。現実は国家に三災七難が起こり、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいるではないか。それを仏教者は見て見ぬふりをするのか。権実・正邪の混乱によって、国土に謗法が充満し、それによって災難が頻発しているのだから、権実の戦さを起こして正邪を決し、我此土安穏の仏国土を成就することこそ大乗菩薩の使命である。これが『立正安国の行者日蓮』の信念であった。」(『法華コモンズ通信』第7号所載、花野充道「巻頭言「遂に願うべきは仏国なり」の冒頭)
・「立正安国」については、『立正安国論』をはじめ、これを証する日蓮遺文は、きりがないほど、多数ある。
3.コモンズやコモンとは何か?
・「コモンズ」(Commons)とは、入会地、具体的には共有地とか共有林のことで、15世紀末から19世紀前半のイギリスで二度起って労働力移動の観点から資本主義成立の淵源となったといわれている「エンクロージャー」によって、共有の耕地や林・原野などから追い払われた農民たちのもとの入会地を意味していた。入会地は、農耕共同体の名残である。なお、マルクスらにとって共同体のもつ肯否の意味あいについては、後で触れる。
・「エンクロージャー」(Enclosure)とは、
「開墾地,共有地,放耕地などを石垣 ,生垣その他の標識で囲み私有地であることを
明示すること。『囲い込み』と訳される。その中では共同体的諸規制から離れた個人本位の資本主義的土地経営が目指される。普通イギリスについていわれるが,他のヨーロッパ諸国における同様の現象もそう呼ばれることがある。イギリスでは 15世紀末から 17世紀中葉にかけて第1次エンクロージャーが,主として牧羊のために領主の手で非合法的に行われ,土地を追われた農民が浮浪者になり廃村も出現した。産業革命と並行して 18世紀後半から 19世紀前半には第2次エンクロージャーが農業生産の向上を目指す大農経営のために行われた。第2次のものは議会立法によって推進され,第1次よりはるかに広範囲に及んだ。その結果自営農民層は農業資本家と賃金労働者に分化し,イギリス農業の三分制度が確立した。」
*三分制度=地主・農業資本家・賃金労働者の三者からなるイギリスの農業制度
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典』「エンクロージャー」項目 ネット検索)
・晩期(1870年代以降)マルクスと「共同体」〔資本主義化によって否定されるべきものなのか、それとも「否定の否定」としての共産主義化に役立つものなのか否か、が問われている〕研究の関係は、以下の通りである。
・「パリ・コンミュンをはじめ、共同体・コミュニティに対する関心の高まりもあり、遅れていた原始・古代からの共同体研究が本格化した。共同体研究ブームである。アメリカの文化人類学の先駆者と言われるL.H.モーガンの『古代社会』(Ancient Society)が一八七七年に刊行されたが、マルクスもそれを読み、ここでも長大な『古代社会ノート』(クレーダー編『マルクス古代社会ノート』)を作成している。」
・「ロシアのナロードニキ、そしてロシア社会民主労働党の理論家、ヴェラ・ザースリッチからのマルクスへの(『資本論』にあるように、一度、共同体は消滅する運命にあるのかどうかという〕質問状と、それへの返書がある。(中略)〔マルクスはこの返書のなかで〕私が行った特殊研究により、私は、この共同体がロシアの社会的再生の支点だと確信するようになりました」〔と肯定的に述べている。〕
・「パリ・コンミューンで幕を開いた一八七〇年代、『晩期マルクス』は『純粋資本主義』の『資本論』を基礎にして、たんなる所有論的な Communism(共産主義)から、後進ロシアの農村共同体をも大きく視野に入れたCommunitarianism(共同体社会主義)を射程に収めようとしたのではないか?」
*コミュニタリアニズム=自主的な共同性を重んじる「共同体社会主義」
(いずれも、大内秀明『日本におけるコミュニタリアニズムと宇野理論―土着社会主義の水脈を求めて―』の60頁と188頁、社会評論社、2020年)
・「〔ゲルマン民族のマルク協同体と並んで〕ロシアには依然として、〔ミールという]農耕共同体が残っており、[晩期マルクスは、]その共同体の力を基礎として、コミュミニズムへの移行が行えるというのである。」(斎藤幸平『人新世の「資本論」』185頁、集英社新書、2020年) *この点で、大内と斎藤の意見は一致。
*人新世=ヒト中心の年代というノーベル化学賞受賞者P.クッルツエンの言葉。
また、斎藤幸平は、「コモン」(Common)について、次のようにいう。
・「近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えだ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。(中略)〔資本主義でも旧来の共産主義でもない〕第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。」(斎藤、前掲書、141頁)
・以上の議論をみてもわかるように、ここで、われわれは「理想の共同体」をめぐって「宗教と社会主義との共振」(村岡到)現象があることがわかる。宗教も社会主義も、ともに故郷喪失者の「再共同体化運動」であるといってもいい。断っておくが、ここでいう「社会(あるいは共産)主義」は、中国や北朝鮮とは、全く関係がない。
・ところで、日本の農本主義者の権藤成卿の「社稷」や大本の出口王仁三郎の「皇道経
済」などのように、産土神を中心としたムラを底としオオキミを頂とした古代社会(始
原の伝統的共同体)を復古的に理想とする(資本主義の単純な否定)のか、
・それとも、経済思想家の斉藤幸平(大阪市立大学准教授)や哲学者の柄谷行人(『ニュー・アソシエーショニスト宣言』)のように、「理想の共同体」は、伝統的共同体に対抗した「個人」(資本主義社会のなかで生まれて成熟して社会主義化を準備する)によってしか形成されないものとみるのか(結果としては、始原も含む伝統的共同体も資本主義も否定)、ということが問われているといえよう。
・その意味で、斎藤や柄谷の「理想の共同体」論は 始原を含む伝統的共同体の「否定の否定」(双方の弁証法的な否定)の立場である。
・家永三郎は親鸞に「否定の論理」をみているが、親鸞は一重の否定(現世否定、来世往生)。これに対して、日蓮は二重の否定(あるがままの現世と安易な来世往生を否定し、現世の仏国化をはかった)である。すなわち、「否定の否定」の立場である。
・経済学者の斎藤幸平は、「脱成長のコミュニズム」を提示して、その5つの柱について次のようにいう。なお、「脱成長」は、石橋湛山の「小国日本」を想起させる。
- 使用価値経済への転換―「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産と大量消費位から脱却する
- 労働時間の短縮―労働時間を削減して、生活の質を向上させる
- 画一的な分業の廃止―画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
- 生産過程の民主化―生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
- エッセンシャル・ワークの重視―使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を
(斎藤幸平、前掲書、300-314頁)
4.法華コモンズがめざすもの―「不軽精神」による仏国づくり―
・だが、この斎藤のプランを実現するためには、よほど練達した「個人」(人間)が必要となろう。では、どうして必要とされるこの「個人」(人間)ができるのか?
・宗教の役割なのでより精神的なものになるが、この実現には仏教一般の「少欲知足」の倫理と日蓮仏教の「不軽精神」が必要であろう。
・これについて、遺文には「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にてそうろうなり。不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にてそうらいけるぞ。」(崇峻天皇御書)とある。
・佛立開導の長松日扇は教歌のひとつに、「義は強く言やはらかに身を下る これぞ不軽の
折伏と知れ」というものがある。また、妙楽が法華経について言った「教弥実位弥下」(教いよいよ実なれば、位いよいよ下る)を、本門佛立宗では不軽菩薩のように「へりくだる」という意味で、「位弥下」するといっている。
・しかし、この言葉を個人の徳だけに限って使うべきものなのかどうか。
・瓦石が飛ぶ中での深敬の姿は戦後の日本の国民と国家の進むべき道を示しているものなのかも知れない。
・戦後の石原莞爾は、平和憲法ができる前に「丸腰非武装」を言っている。
・「不軽国家日本」の建設(望月哲也の造語)は「本門の戒壇」づくりではないのか?また、憲法9条は、法華仏教徒にとっては「不軽憲章」(西山茂の造語)ではないのか?
・日扇の教歌の「義は強く」も、ウイグル、香港、ミャンマーなどの人権問題にこそ、より的確にあてはまるのではないか?でも、批判の仕方は「言やはらかに身を下る」である。
・以上、個人の振舞に限らず、経済、政治、外交と幅広く「不軽」的な振舞について見てきたが、最後に、われわれが創りたい「理想の共同体」の「四菩薩プロジェクト」(私の造語)を紹介することにする。
・「現代社会のなかに『再歴史化』される本化仏教には、具体的にどのような実践が要請されるのであろうか。それは、西山が本化ネットワーク研究会の指針として提示した『四菩薩プロジェクト』である。西山が2008年に開かれた日蓮宗の第41回中央教化研究会議で行った基調講演によれば、その内容は次のようなものであった。
まず、それは、『必ずしも政治運動や平和運動に限らないで、幅広く安国への道筋を考えようとするもの』で、『(本化)四菩薩のお名前に代表される四つのお働き』を志ある者たちで分担して実践しようとするプロジェクトのことである。
四菩薩のうち、『上行菩薩がすべての「立正安国」行を代表している(=総行)』が、『格別して考えると、役割を分担した四つの行(=別行)と考えることもできる』ので、以下に、『四弘誓願』と絡めた四つの別行の中身を紹介する。
まず、上行プロジェクトは立正安国の行で『正義、公平、平和、自由』の分野での菩薩行のプロジェクト、無辺行プロジェクトは究理潤世の行で『教学、現代思想、科学技術、社会科学』の分野での菩薩行(妙智活現運動)のプロジェクト、浄行プロジェクトは洗心浄土(心身と環境の清浄化)の行で『現代青年のアパシーやフラストレーションの問題や地球温暖化や環境悪化』の分野での菩薩行(依正・身土の浄化運動)のプロジェクト、そして、最後の安立行プロジェクトは同悲同苦・抜苦与楽の行で、『福祉・保健医療・飢餓救済等』の分野での菩薩行のプロジェクトである。
このうち、上行プロジェクトはWCRPや四方僧伽運動などによって、無辺行在家プロジェクトは本化ネットワーク研究会や法華仏教研究会等によって、浄行プロジェクトに含まれる環境運動については宗教・研究者エコイニシアティブ(RSE)や日蓮仏教の諸教団が展開する脱原発(脱原子力発電)運動等によって、そして、最後の安立行プロジェクトについては東日本大震災の被害地(者)に対する日蓮仏教諸派のネットワークや長年にわたって福祉活動に特化して教団ぐるみで取り組んできた日蓮宗法音寺(日本福祉大学や社会福祉法人・昭徳会を創始)等によって、それぞれ、担われてきたし、今後も中心的に担われ続けていくことが期待されているものである。」(拙編著『シリーズ日蓮第4巻・近現代の法華運動と在家教団』中のⅣ第3章の拙稿「門流を越えた法華仏教のネットワ-ク運動」〈322-341頁〉のなかの335-336頁)
・このほかにも、もっと唱題による現証利益を強調して信者を増やし(現証起信)、やが
て、彼らを仏国づくりへと誘う(自利利他連結転換)とか、仏国づくりの根拠地としての
在家講をたくさん作るとか、底辺や周辺にいる人々に同悲できる教徒をいっぱい作ると
か、教学の用語を誰にもわかる世俗語や現代語に「翻訳」する力のある教徒を増やすとか、
きりがないほどの注文があるが、この講義では、このくらいにしておこう。(法華コモンズ仏教学林 理事長 西山茂)