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5月27日(月)午後6時半より、本年第2回(通算72回)となる菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」が開催されました。今回の始まりは、【経文】では譬喩品末尾の偈文「闘諍掣し 嘊齜嘷吠す」からで、テキストも690頁5行目の「闘諍掣」~から始まります。【科文】では、前回の五鈍使(貪・瞋・痴・慢・疑)の説明の最後となる「疑使を譬うるを明かす」になります。今回は、この「衆生の十使」のうちの五鈍使に続いて、五利使(邪見・戒取見・身見・見取見・辺見)を説明していきます。「使」とは煩悩の異名で、五鈍使は禽獣に譬えられ、五利使は禽獣にはない通力や知恵があるとして、鬼神に譬えられています。
偈文の内容としては、長者の大宅が廃屋のように描かれて、その中で悪獣や毒虫や鬼神等が入り乱れ食い合いや殺し合いが行われている悲惨な様子が描かれているのですが、『法華文句』の解説ではそうした地獄のような描写の一つ一つに対して、仏教教義的な意味が譬えられているとして、順次に五利使の説明がされていきます。
例えば、経文に「また諸鬼あり、その身は長大に、裸形・黒く痩せて、常にその中に住せり」とある説明では、これを五利使の「身見」に当てて、「裸形」の意味を「自分が自在であると思い、修行せず慚愧の念が無いこと」とし、悪によって荘厳するので「黒い」、功徳という元手がないので「痩せて」いると解釈しています。その解釈はこじつけと思えるほどですが、しかしそこには、『法華経』という経典を「完全情報体」と見て、宇宙のすべてがそこから読み取れるとする、智顗・灌頂の大系的信念と情熱が感じられます。
今回の講義の範囲は、経文のこの大宅に火が起こり、悪獣毒虫や食人鬼や鬼神たちが互いに残害して血を飲み肉を喰らう様が述べられるところまでです。テキスト解釈ではこれを様々な煩悩(使)を持つ利鈍の衆生が、禅定を得ることは同じでも十使による見解が違うため、議論する様を「相残害のようだ」としています。テキストは、698頁1行目の「「相残害」の如きなり」までで終了となりました。
次回の6月24日の第3回(通算73回)は、テキスト698頁1行目の「既に禅中において諸見を起こせば」から始まります。レジュメの内容説明が詳しく分かり易いので、初めての方でも充分について行けます。ぜひご受講下さい。(担当スタッフ)

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