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去る10月21日(土)午後1時半より四時間に渉り、大竹晋先生の集中講義「史実・尼僧畜髪縁付―ブッダ時代から現代まで—」第1回講義が開催されました。精査した資料を豊富に呈示しての、史実に基づく実に興味深い講義の内容を報告します。
第一回「海外編/日本篇Ⅰ:前近代、明治、大正」
海外編では、仏教徒を七衆に分けて、それぞれの守るべき戒律を見ていきます。七衆とは、出家の「比丘・比丘尼・式叉摩那(比丘尼見習い)・沙弥・沙弥尼」、在家の「優婆塞・優婆夷」です。このうちで尼僧とは「比丘尼・式叉摩那・沙弥尼」に対する中国式の総称になります。
七衆の守る戒律として、学処(学ぶべき道徳律)と戒(道徳性)がありますが、まず蓄髪について、インドでは尼僧の蓄髪は禁止、しかし中国では身体髪膚を傷つけない儒教倫理から、唐の時代に尼僧の蓄髪が発生しました。縁付については、インドでは学処によって出家者は絶対独身。中国においては北魏の殺人教団「大乗賊」をひきいた沙門法慶の妻、恵暉尼が文献上で尼僧縁付の第一号になります。
次に日本篇Ⅰの前近代です。奈良時代に鑑真が比丘戒壇を伝えますが、比丘尼戒壇は平安中期の無量寿院戒壇までは造られません。尼僧の蓄髪縁付も、平安時代に発生しますが、鎌倉仏教の法然さえも尼僧の蓄髪と縁付は峻拒しています。その後、放置状態だった尼僧縁付は、江戸時代に禁止されます。
日本では、明治に入り尼僧の蓄髪縁付は太政官布告によって解禁されます。しかし当初は、男僧による蓄髪推進の主張があるものの、蓄髪縁付は忌避される傾向にありました。蓄髪の始まりは、大正二年に『中外日報』に報じられた浄土宗の有髪尼僧・加野操子からで、尼僧学校でも「剃髪せずとも入学を許す」方針を出しますが、大多数の尼僧はこれに反対します。しかし、既に僧侶の蓄髪妻帯を受け入れた浄土宗の男僧は蓄髪に賛成して、有髪の教師を育成して男僧の妻として「夫婦共に僧籍に登録することを寧ろ歓迎」しました。
これに対して駒澤学園の尼僧は尼僧蓄髪論に反対して、男僧達の堕落と清らかな出家への憧れをのべ、「この円頂黒衣の装がどれ程私達の求道を助けてゐることでせう」と語ります。全体的には、男僧は「精神さえ僧侶なら、形式は俗人でよい」の精神の出家論で、大多数の尼僧はそれを疑う、という構図です。
それでも大正時代には、尼僧蓄髪を公認する宗派が増えて、縁付も男僧側から主張されていきます。(スタッフ)

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