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2021年6月15日(火)午後6時30分より、菊地先生の講座【歴史から考える日本仏教⑦】〈日蓮をはぐくんだ房総地域の歴史と宗教を考える〉第3講「鎌倉幕府の成立と房総地域」が行われました。引き続き緊急事態宣言発令中のため、これまでと同じくzoomによるリモート講義となり、受講者はそれぞれオンラインにて受講しました。

第3講となる本講では、これまでの古代・平安時代における房総地域の歴史的経過を踏まえ、伊豆国で挙兵し相模国石橋山の合戦にて敗走、房総に逃れ再び挙兵した源頼朝による鎌倉幕府の成立まで、また房総で頼朝を支援した在地武士など、頼朝をめぐる房総地域の様々な状況についてご説明いただきました。以下、内容について要点を絞りご紹介致します。

はじめに

鎌倉幕府成立の歴史的前提として、平安時代に関東各地に勢力を伸ばした郡司の系譜を引く軍事貴族や豪族の存在がある。これらの中で有力な東国武士は都で院や摂関家に奉仕し、東国に居ながらにして中央との密な関係を構築した。かつて戦後日本において「東国独立国家論」が受容されていたが、東国武士と都との関係を考えると、事はそう簡単ではない。従来、武士は田舎の有力農民が自身の土地を護るために自警団的に武装した、と言われた。しかし地方の武士と中央の権力とは、物理的に距離は離れてはいるが、相互関係性においては密な面がある。

1 源頼朝の挙兵

以仁王より諸国源氏に令旨が下り、挙兵した頼朝は相模国石橋山の合戦にて敗走、真鶴より船で安房に向かう。菊地先生は、この時三浦半島を拠点とする三浦一族・和田義盛が海路をおさえていたので、頼朝は海路で安全に逃げられた、と指摘。この頃、中央では平清盛が後白河院を軟禁し院政を停止させ、房総では平家の武士である藤原忠清が上総守となり、在地で上総権介広常と対立した。

2 千葉常胤・上総介広常の決断

房総に辿り着いた頼朝と合流した千葉常胤軍は、東胤頼らに下総目代を攻撃させ謀叛の意思表示をする。この武功により、後の中山法華経寺の所領となる千田荘が千葉氏に与えられる。以後常胤は頼朝に重用され、一族は繁栄していく。次に、情勢を静観していた千葉介広常は、頼朝への従軍に遅参したことが『吾妻鏡』『平家物語』に描かれている。菊地先生はこの遅れについて、後の広常粛清の伏線か、と指摘。頼朝軍は海路で鎌倉入り、頼朝は密かに後白河院に平氏との和睦を申し入れるが、平宗盛は「最後の一人まで死ぬまで戦え」との清盛の遺言を守りこれを拒否、平家滅亡への道を選択する。寿永2年(1183)の木曽義仲追討の宣旨をもって、頼朝は反乱軍から正規軍となり、間もなく広常および子息能常が鎌倉において誅殺される。菊地先生は、当時の武士は知略と暴力を駆使し、自らに利があると思う側に平気で寝返る事が常であった。東国を平定し次の段階として西国、即ち朝廷との関係を重視する頼朝にとって、坂東(東国)のことのみを考え(寝返る危険性がある)、広大な所領を有する巨大豪族であった(頼朝の脅威となる可能性がある)広常は誅殺されざるを得なかった、と中世当時の頼朝の周辺と、在地武士の実情について指摘。

最後に菊地先生は、鎌倉幕府成立と頼朝、房総地域の在地武士との関係について、千葉常胤・上総介広常らの在地武士は、流人として上陸してきた武家の棟梁である頼朝を担ぎ上げ、幕府を立てようなどという構想があったとはとても思われず、“ばあたり”的な軍事行動の連続が、“なしくずし”的に鎌倉幕府成立へと繋がっていった。かかる過程は、鎌倉幕府成立の諸段階のひとつとして相対化され、現在の日本中世史研究者の共通理解となっている、と指摘されました。

今回も多くの資料をご用意いただき、一つ一つ丁寧に分かりやすく解説してくださいました。資料を細部まで読み解く菊地先生の鋭い炯眼に、受講者一同目から鱗が落ちる思いで聴講しました。

次回は7月20日(火)18時30分~第4講「日蓮の活動と房総地域」です。緊急事態宣言は解除されましたが、対面講義かオンライン講義かについては、法華コモンズホームページにてご案内致します。ご確認の上ご聴講ください。(スタッフ)

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