特別講座『これからの天皇制』発刊記念シンポジウム 報告記事

特別講座『これからの天皇制』発刊記念シンポジウム 報告記事
2020年12月6日 commons

2020年12月6日(日)午後4時より、オンライン特別講座「『これからの天皇制』発刊記念シンポジウム」が、北青山の持法寺客殿(布施学林長の自坊)を「発信会場」として開催された。このシンポジウムは、2019年度後期の連続講座『これからの天皇制』が本となり、春秋社から出版されたことを受けての企画で、その陣容としては、連続講座の講師6名から、菅孝行先生、島薗進先生、大澤真幸先生、片山杜秀先生の4名がパネラーとして参加、また書評パネラーとして当教学委員の上杉清文先生、そして司会進行を大谷栄一先生にお願いしての開催となった。当日は、パネラーの先生方にコロナ禍の状況も踏まえてのミニ講義をして頂き、「天皇制」の今後を大胆に語り合って頂いた。では、3時間近くに及ぶシンポの概要を、以下に報告しよう。

 

はじめに、司会の大谷先生より主催者側の開催意図についての説明があった。法華コモンズがなぜ天皇制を採り上げるのかといえば、日蓮教学に国体論(天皇制)を組み入れた近代日蓮主義の問題があって、その克服(再歴史化)のために、まずは一般的な天皇制論を学ぼうということだった。次に、今回のシンポジウムの前提となる『これからの天皇制』の論考について概容説明を行った。その要点を、以下の通り再録する。

〇第1講「「平成流」とは何だったのか」 講師:原武史先生

平成の天皇夫妻が被災地慰問と戦地跡慰霊を続ける中で、「平成流」つまり、平成天皇と皇后の「ひざまずくことで国民と同じ目の高さ」で話すという、一対一の「国民と天皇の関係性」が出来上がっていた。その平成流を作ったのは皇后(美智子)だったのではないか。美智子が慰問先でひざまずいた理由に、カトリック信仰があるのではないか。宗教的といえば、平成天皇・皇后は宮中祭祀も熱心に行っていた。

〇第2講「天皇制の「これから」―その呪縛からの自由へ」 講師:菅孝行先生

「天皇制について考える」のは、日本国家が「権威」としてきたものへの「信仰の将来」を考えることである(権威としての「天皇教信仰」)。「天皇制」を、日本資本主義の総括形態としての国家権力、その構成要素として考える。天皇制からの自由は、「隣人相互間での信認関係」が作られることが必須。「天皇制を廃絶」するためには、「現代のアジール」の形成による「陣地」の組織化を構想する必要がある。

〇第3講「出雲神話論―神話化する現代」 講師:磯前順一先生

「神話化する現代日本」の状況を説明、「国譲り」で伊勢系に敗れた出雲系の大国主之命が「まつろはぬ神」であること、そして敗れた神や妖怪や他者の問題などに注目。国家神道は靖国神社、伊勢神宮、明治神宮の三つで構成されたが、いま出雲を入れて違う物語を作ろうとしている。祀られざる神など「謎めいた他者の声を聞く」ことや、「他者の眼差し」をもって天皇制を考える必要性を強調。

〇第4講「国家神道と神聖天皇崇敬」 講師:島薗進先生

国家神道の中心とは「天皇の祭り」であり、それは「神聖天皇崇敬」のことで、国家神道は戦後も生きている。葦津珍彦の「神聖天皇論」では天皇を日本の祭主として、国家神道の歴史を「見えない化」させ、それを日本会議が推し進める。しかし天皇崇敬は、神社ではなく学校や軍隊でこそ叩きこまれた。そうした全体を見なければ、近代の新宗教である国家神道も、日本近代の精神史も分からないままだろう。

〇第5講「天皇制から読み取る日本人の精神のかたち」 講師:大澤真幸先生

なぜこれほど天皇制が続くのか?歴史的にみれば、天皇と摂関家・武家という「空虚な中心と実質的権力」の二重構造がある。武士は、天皇の権威に対して「拒絶しながら受容する」両義的な態度を取った。この「拒絶的な受容」は近代でも維持されて、日本人の精神のかたちを作った。天皇制は「我々は合意できる」という合意であり、グローバル化時代の民主主義として、「天皇は選挙で選ぶ」のが良い。

〇第6講「「象徴天皇」と「人間天皇」の矛盾―戦後天皇制をめぐって」 講師:片山杜秀先生

戦後の天皇のありようは、「象徴(憲法)」」と「人間(宣言)」。人間宣言(1946年元旦の詔)では、国民と天皇の関係は「信頼と敬愛」と強調。象徴天皇とは、天皇は意思なき装置(機関説)であるとの強調で相矛盾するが、戦後状況のなかでは持ちつ持たれつだった。しかし、「戦後」というリアリティが喪失した現在、これからの天皇制は、あるいは天皇から将軍に戻る幕府的政治の時代になるのではないか?

(詳細はブログ記事参照のこと⇒特別講座「これからの天皇制」 – 法華コモンズ (hokke-commons.jp)

 

以上の講演内容をふまえ、司会の大谷先生からはシンポの論点として、次の3点が挙げられた。

  • 「空虚な中心と実質的な権力」という天皇制の二重構造⇒朝廷と武士(天皇と将軍)
  • 天皇制にみる宗教性⇒近現代における国家神道と神聖天皇崇敬
  • 「敬愛と信頼」にもとづく「国民と天皇の関係」のゆくえ

 

そして、4人のパネラーによる15分間の発表が、以下の内容で行われた(当日レジュメを参照して説明)。

発表①「コロナ禍と天皇幻想—出てこない天皇・出さない政府」菅孝行先生

1、挙国一致と惨事便乗⇒今回のコロナ禍で「国を挙げて」の空気の下、被害は弱者に集中し、惨事に便乗するものも出る(ショック・ドクトリン)。3.11では、癒しの渇望に平成の天皇が応えた。

2、天皇が出てこない⇒しかし、コロナ禍では令和の天皇は表に出ることがまったくない。

3、「3.11」や沖縄・戦争法制とコロナ禍の違い⇒政府批判ともされた平成の天皇の振舞いは、政府にとって対権力不満派の「ガス抜き」でもあった。今回、天皇の「おことば」さえ無いのは、ハプニングを怖れている政府・宮内庁が出させないからではないか。

4、「平成」期に政府の学んだ教訓⇒実利や予算に直結するコロナ禍への対応についての「おことば」は、政府にとってリスキー過ぎて、「ガス抜き」にもならない。

5、トリアージも中間搾取もできない!⇒例えば天皇が「国民の命がわけへだてなく尊重されるよう希望します」といえば、もうトリアージも給付金の中間搾取も出来なくなる。

6、望月衣塑子記者の狙い⇒以前に望月記者が「天皇待望発言」をしたが、「おことば」で悪政に歯止めをかける戦術としては理解できるが、政府はその「実害」を怖れている。

7、天皇個人の歴史観は「国際基準」⇒現天皇夫妻が国際基準で歴史観やコロナ対応に言及すれば必ず問題が生じるため、政府は絶対にリスキーな局面に天皇を出すことはない。

8、ロボットの意味の逆転⇒新憲法の当初は、民主・立憲・平和を守るのは政府で、天皇が「象徴天皇」で政府のロボットなら安心とされたが、今は護憲・平和を守るのが天皇になって逆転している。

9、天皇依存からの自由を⇒「令和」は象徴天皇制を始末する時代である。良き主権者は君主を必要としない。良き主権者は、まず君主依存からの脱出から始めるしかない。

(以上、『論座』(2020/7/3掲載)の原稿に手を加えてのレジュメより)

 

発表②「国家神道と神聖天皇崇拝」島薗進先生

1、「空虚な中心」と「空気」で支配される社会⇒イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本教について』(文藝春秋1972年)やロラン・バルト『表徴の帝国』(新潮社1974年)が代表的。

2、「無宗教」の日本はいつ何がなくなったのか?⇒阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書1997年)、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書1961年)を参照。

3、なくなったようでなくなっていない「国家神道」⇒島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書2010年)、皇室儀礼、靖国神社、伊勢神宮、明治神宮、「日の丸・君が代訴訟」などの問題。「天皇は日本の祭主」として、歴史の無化(見えない化)が進んでいる。

4、なくなったようでなくなっていない「神聖天皇崇敬」⇒戦前における学校、軍隊、慈恵、メディアによる天皇崇敬の身体化が行われる。 島薗進『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房2019年)、『明治大帝の誕生』(春秋社2019年)を参照。

5、「復興」してくるものは何か? ⇒東アジアの権威主義の構造をどう捉えるか?

 

発表③ 大澤真幸先生

1、コロナ禍の中、いわゆる「おことば」がなかったことについて

この事実は天皇が必要ではないことを示しているが、それでも棄てることができないのは、逆にいかに天皇を必要としているのか、ということを示している。

2、「空気の空気」としての天皇

天皇の機能は何か。天皇は、日本社会において、メタレベルの空気、空気の空気としての役割を担っている。天皇制とは、何であれ我々がすでに合意しているということへの合意、合意が可能であることへの合意である。しかし、天皇というメタ空気(空気の空気)は、それを自明なものとして受け入れられる者に対してしか神通力を発揮しない。今後、日本社会の多様化は必須である。さまざまな出自の人々を、「われわれ」の共同体に包摂しなくてはならない。しかし、「天皇」という制度は、包摂と連帯の装置としてではなく、むしろ、締め出しの装置として働くことになる。これは、天皇が(メタ)空気であることの必然である。

3、天皇を選挙で選ぶ

この「メタ空気」の限界を克服する方法として、私は、天皇を選挙で決める制度を提案したい。世界史的にみれば、王を選挙で決定する制度はいくつか存在していた。選挙された天皇は、「大統領」なのか。近いのは、ドイツの大統領。実効的な政治権力はもたない。国民の顔であり、威厳の象徴。日本国憲法には、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とある。実際には、日本国民は、それが自分たちの総意に基いていることを確認したことは一度もない。「任期付き選挙天皇制」にするため、憲法を改正する必要はない。むしろ現行憲法の国民主権原理に立脚する天皇制は、選挙制にこそ適合的である。

4、共和政=君主政

普通、共和政と君主政は対立すると考えられているが、ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスは、共和政と民主政は、互いに互いを必要としていると述べる。選挙天皇制の提案において念頭においているのは、このノヴァーリスの主張である。現在の日本の天皇制は、共和政を支持するものにはなってはいない。共和政との間で、相互に支え合うようなかたちで天皇制を構成するためには、日本人は、自分たちの「象徴(代表)」である天皇を自分で選ばなくてはならない。選び、代表させるという行為を通じてはじめて、国民は、何かを意欲し、決定する政治的主体として自分を自覚することになるからである。

 

発表④「これからの天皇制を占う 秋篠宮家を手掛かりに」片山杜秀先生

1、「戦後の天皇制=象徴天皇+人間天皇を支えていたエートス」の消滅

2、上山春平の中江兆民論からの二項対立図式が、戦後の皇室論に応用できる。

「ブルジョワ革命の後には、それまで共闘していた大ブルジョワ思想と小ブルジョワ想が対立を始めることがしばしば認められる」

(明治維新後)中江兆民の厳格主義・禁欲主義(小ブル)⇔ 福澤諭吉の快楽主義・功利主義(大ブル)

(戦後皇室の世代論)戦争への反省・義務擁護⇒自由に生きる・権利擁護

3、秋篠宮家の事例研究

事例①「秋篠宮さまが公費支出に疑問 大嘗祭の秘儀と費用(2019年11月13日)」

「宗教色が強いもので、国費で賄うことが適当かどうか」などと述べられ、天皇の私的生活費にあたる「内廷費」から支出されるべきだという考えを示した。秋篠宮さまの発言は憲法に定められた政教分離の原則との関係を指摘したもので、大嘗祭をより簡素なものにすべきだという趣旨。⇒【反応】しかし、国民は無反応。政教分離の重みがもはや国民に共有されてない。

事例②「秋篠宮さま 55歳誕生日前の記者会見 2020年11月30日 2時04分」

(秋篠宮さま)「娘の結婚について、つい先日、一週間ほど前になりますけれども、長女が今の自分たちの気持ちというものを文書で公表いたしました。これは憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります。本人たちが本当にそういう気持ちであ れば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています。」⇒【反応】必ずしも理解を得られていない。国民の皇室なら国民並みの行動原理という話には世間ではならないようである

4、国民と共に歩む皇室像が、戦争を反省し戦後民主主義を擁護する国民と共に歩む皇室(平成の天皇)から、自由に生きる個人主義的国民と共に歩む皇室(令和の天皇)に変化すれば、妻を守る天皇や娘を放任する秋篠宮が出てくるのは当然だが、その「普通さ」は皇室を今後に活かすのか、そうでないのか。

⇒上皇の存在の示し方が歴史化し、ブルジョワ思想的皇室も支持不十分とすれば、⇒「皇室は宙に浮く。虚しくなってゆく。」

 

以上の4名の発言を受けて、上杉清文先生が書評パネラーとして本に載った6名の講演について、論評をおこなった。また、本日の発表を受けての質問として、①神聖天皇崇敬と天皇霊(折口信夫説)の関係がどうなっているのか、②君主制と共和制との相補的共存が可能なのかどうか、③大塚英志氏が『感情天皇論』で「バチカン市国のように天皇市国をつくり、日本国の外に置く」という提案をどう思うか、などを挙げた。

この上杉先生の質問事項を受けて、司会の大谷先生は

  • バチカンと皇室の関係について、②神聖天皇における霊性の問題、③共和制と君主制をどう考えるか、

の3点に質問をまとめて、各先生方に応答を求めて、討議に入っていった。以下に、主要な応答内容と意見を紹介していく。

 

【菅先生】今日、バチカンと天皇制を共軛とする流れがあると感ずる。また、神聖天皇の霊性については霊性を離れて天皇制は無く、どこの国も宗教的権威と無縁に権力を形成しにくい。この霊性をまた悪用される時代に入ってきたと思う。共和制と君主制について、共和制であれば問題なしとは思えないが、近代からずっと君主制だった日本においては、ともかく一度でも君主制を離れて共和制にチャレンジしなければ、いつまでも一人前の主権者にはなれないと思う。

【島薗先生】質問頂いたカトリックと天皇の関係だが、イギリスの王権では君主制とカトリックは重なっていて教会の長であり、またダライラマも法王である。現代の王権はグローバルな市民社会と連動しているし、バチカンもそうなっている。霊性については、メタ空気としての皇室はそれを望んではいないし、ことに皇室女性は逆に傷ついているのではないか(傷つく立場なので共感を呼び、霊性を持つ?)。

【大澤先生】共和制と君主制についてだが、大統領を選挙で選ぶのが共和制であり、「天皇を選挙で選ぶ」ことも誰からも反対されないのではないか。天皇制は、一部の家族(天皇家)の犠牲の上で成り立っている人権蹂躙の制度になっている。万世一系の血の制度ではなく、選挙制度という意思で天皇を選ぶのは、共和制の良さを最大限活かすことになる(「共通意思」という空虚な合意を天皇が体現する⇒民主主義のバージョンアップ)。王の二つの身体とは、王の自然的身体と政治的身体のことだが、選挙制度は政治的身体を民主主義的に活かす。

【片山先生】尊王攘夷思想では、儒学から国学へと天皇像が変わった中で「天皇は絶対」となっており、西洋思想(キリスト教)と両立できないとされる。これは、江戸期にキリスト教の絶対神の影響を受けての、対抗的な「絶対」である。しかし、キリスト教と違うのは、空虚な中心として天皇は「多元的である」「なんでも丸め込められる」「この世のありのままを映す鏡(八咫鏡)として肯定する」融通無碍な存在である。しかし、「空気の空気」としての「空虚な形式」である天皇制でも、血や肉体という自然的身体にこだわる者が必ず出てきて、共和制と君主性の間で対立が生じるのではないか。形式や機能で話が済むなら上手くいくかもしれないが、神話や血の問題にこだわる人達がいるとダメではないか。その辺が分岐点なのかと思う。

 

この刺激的な質疑応答の後は、受講者からの質疑応答の時間に入っていった。

質問1:本日の先生方の話が、どのように日蓮聖人の教えと関係してくるのでしょうか?

応答①(上杉先生):西山先生が日蓮門下全体の問題として、門下が手を付けなかった「日蓮主義」とその日蓮主義の「再歴史化の問題」を提示されて、司会の大谷先生もそれを受けて研究を続けている。法華コモンズもこの課題を引き受けての一環として、「日本の国体=天皇制の問題」を検討している。だからまず、近代日蓮主義の中での国体(天皇制)問題を学ぶべきであり、今日の話と日蓮主義の再歴史化の話は直接的には結びつかない。

応答②(島薗先生):近代日本において民衆に神聖天皇崇敬の信仰が広がって身に着いていく過程は、近代新宗教が広がっていくのと重なっている。その新宗教は仏教でいえば圧倒的に日蓮系だった。近代に天皇崇敬を横から支えたのは日蓮仏教だった。日蓮主義は立正安国論を立てて、社会性を重視する民衆の横の繋がりによる国家の救済を導いた。天皇崇敬を相対化するのに日蓮仏教から見る、というのは重要な視点になる。そこを解明すると、神聖天皇崇敬への歯止めになるのかもしれない。

応答③(大澤先生):なぜ日蓮主義が、近代日本において知識人にずば抜けた影響力をもちアピールしたのかが、いまだ謎である。それはおそらく天皇との関係がある。その解明を、大谷先生に期待している。

応答④(片山先生):おそらくなんでも包摂する「空虚」で無価値の「天皇教」と、その中に価値を見出そうとする日蓮主義(戦後は創価学会)との交渉があったのだと思う。価値を提示することによって、天皇制を制御するのが日蓮主義だったのではないか。

 

質問2:皇室典範では、天皇および皇族を養子縁組できないという規定をどう考えるか?

応答1(菅先生):これに関連するが、大澤先生の「選挙で選ぶ天皇」という案は、近代天皇制を固めた皇室典範ある限り絶対に無理だと思う。両立不可能である。ロラン・バルトはカッコよく「空虚」といったが、島薗さんが言われたように皇室典範はじめ「中に一杯詰まっている」のであり、空虚ではない。

応答2(島薗先生):皇室典範は、戦前は憲法よりは上に見られた。万世一系という男子の血が絶えてはいけないというのは、国体護持の象徴として現在の皇室典範もある。リゴリスティックな空気は、皇室典範が醸し出している。

応答3(大澤先生):選挙で天皇を選ぶというのは、今の天皇のアイディンティティを変えてしますことなので、養子の問題など大したことはない。つまり、皇室典範を全廃して、天皇を選挙で選ぼうとするプロセスによって、われわれが成熟していくことが重要だと思う。

応答4(片山先生):皇室典範は、平成の天皇によってすでに踏み破られているので、今はそれが進んでいく時代に入っているのではないか。

 

質問3:日蓮の思想として「富士戒壇思想」がある。しかし、特定の宗教が権力となって他の宗教を排斥するという問題が生じる。宗教と国家のかかわりについて、どう考えるか。

応答1(菅先生):過去・現在に存在している国家は、宗教的幻想抜きには成立できなかったし、していない。国家とはそういうもので、だから政教分離は絶対必要、宗教が政治に関与するのは禁足にすべき。

応答2(島薗先生):超越的な理想とかかわりの無い社会は、かえっておかしい。様々な宗教が並び立つ公共空間が好ましい。歴史では鑑真の戒壇があるが、しっかりした僧伽を作る理想からであり、社会にダルマを弘めることだった。

応答3(大澤先生):公式見解としては、政教分離は当然だが。キリスト教は世俗的禁欲主義と相性が良い。

応答4(片山先生):人間は情動を介していくことがないと社会は廻らない。どんなに理性的でも、宗教をはらんでいる。国家、社会、宗教で、宗教を別にはできない。生身の人間を動員するには、宗教性は必須とされる(無くなると想定しても意味がない)。宗教抜きはありえないが、

応答5(菅先生):私は、公共空間に宗教があってはならないなどと一度も言っていないので。あくまでも政治権力の場にあってはならないということだ。

司会(大谷先生):公共空間と宗教の問題は、いま宗教社会学でも盛んに論議されているテーマで、日蓮主義もこの視点から解明する必要があると考えています。すでに予定時間を過ぎて、3時間近く議論を続けて頂きました。本日は長時間にわたり、ご発表並び質疑応答をして頂いた諸先生方、また受講頂きました聴衆の皆さまに篤く感謝申し上げ、シンポジウムを終了いたします。

 

以上をもって、『これからの天皇制』発刊記念シンポジウム」の報告を終わる。このシンポの始めに、司会の大谷先生からも説明があったが、連続講座『これからの天皇制』とシンポジウムは、西山茂理事長の提案を受けて実現したものであり、そこには日蓮仏教の再歴史化を進めるという法華コモンズ創設時の動機の一つがあった。今回の企画は、広く一般の先生方の「天皇制」観を多面的に学ぶことによって、法華コモンズとして「天皇制と深く交渉した日蓮仏教」の再歴史化をはかる一助とする、という主催者側の意図があった。その日蓮仏教の再歴史化の作業はまだ緒についたばかりだ。今回のシンポジウムで、天皇制について歴史的経緯を踏まえた洞察力溢れる先生方の鋭い見解と論議をお聴きして、その刺激を踏み台に再歴史において「天皇制とは何か」という問いに応えなければならない。次回にまた「天皇制」を扱うならば、まさしく現代に活きる日蓮仏教と天皇制をテーマにしなければならないだろう。

ともあれ、今回のシンポ企画を成功裡に導き稔りある成果を挙げて頂いた御協力の諸先生方、オンライン聴講の皆さま、誠に有難うございました。篤く感謝申し上げます。   スタッフ一同