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 2020年1月23日(木)、「これからの天皇制」第4回講義として講師・島薗進先生による「国家神道と神聖天皇崇敬」が開講された。島薗先生は東大名誉教授で、現在は上智大学院実践宗教学研究科教授また同グリーフケア研究所所長なども務め、宗教学者として実践的現場から現代宗教研究の最先端までをフォローして活躍されています。冒頭で先生は、「国家神道研究は以前から積み重ねて来ており、国家神道という言葉だけでは揺れてしまうところを「神聖天皇崇敬」というと収まる、ここまで来るのに20年近くかかりました」と述べられから、講義に入りました。レジュメの章立ては、Ⅰ.国家神道は戦後も生きている、Ⅱ.日本会議と明治維新、Ⅲ.天皇崇敬と民衆の力、Ⅳ.国家神道の見えない化、の全4章です。以下にその概要を報告します。
Ⅰ.国家神道は戦後も生きている
一般的には、敗戦後の連合軍最高司令官総司令部(GHQ)による「神道指令」によって天皇絶対の国家神道は解体されたといわれるが、これは間違い。この指令の正式の名は「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」であり、ここでは「国家神道=神社神道」と同一視して、具体的には「神社神道の国家経営が廃止された」だけだった。実は国家神道の中心とは、「天皇の祭り」であり、その中には「皇室祭祀」はもちろん「教育勅語」や「軍人勅諭」や「御真影」も入っている。つまり「天皇の祭り」とは「神聖天皇崇敬」であり、それが国家神道の中心にある。
アメリカ人が誤解したのは、英国を逃れた清教徒の建てた国として国教体制の廃止が信教の自由を保証すると考えたから、神社神道を国家から切り離せば、日本の国教体制は終焉すると見た。また、神道という宗教は「軍国主義的並びに過激なる国家主義」として利用されただけで、それは天皇を神とする国教だったからとして、「天皇の人間宣言」をさせる。しかし、国家神道の核とは「神聖天皇崇敬」にあった。神道指令後に民間団体となった神社は、ただちに結集して、1946年2月には国体論や国家神道のリーダー達が「神社本庁」という宗教団体を作った。その第一条には「大御代の弥栄を祈念し」とあり、「神聖天皇崇敬」の存続をはかっていた。「本庁」というネーミングには、やがて国家機関に戻ることが含まれている。この神社本庁が最初に取り組んだのが、「神宮の真姿顕現運動」である。神道指令で毒された日本人の精神気流を回復するため、「伊勢神宮」が「皇位」と不可分であることを主張したもので、昭和35年には国会で「伊勢神宮の御鏡は国家にとって大切なものか」との質問に、池田首相が「そうだ」と答えたことをもって、「神宮と皇室は一体」という成果をかち得ることができたとする。しかし、「真姿顕現」は二・二六事件で使われた言葉で、その前には「国体明徴運動」もあり、全くの戦前回帰といえよう。
Ⅱ.日本会議と明治維新
こうした戦前回帰を進めているのが現在の日本会議であり、その目標とするところは、国体を「美しい伝統の国柄」と言い換えて宣揚し、その新時代に「ふさわしい新憲法を」と改憲を掲げ、教育勅語の復活による祭政「教」一致や、軍事力の教化、また大東亜共栄圏を思わせる「共生共栄の心でむすぶ世界との友好」を掲げている。こうした戦前回帰が起こるのは、占領時代に戦前の日本のどこが問題だったのかを分かっていなかったためで、その解明には明治維新の近代に作られた神聖天皇崇敬と国家神道を見ていかなければならない。明治維新では、日本書紀の「天壌無窮の神勅」や王政復古の大号令での「神武創業」などで、「神道による国家統一」の理念が作られ、様々な皇室祭祀が新たに作られて、古代の「祭政一致」を捏造していった。なにより、皇室祭祀日を祝日とし、「学校」で教育勅語を通して「国民の共通信念」を形成したことが大きい。そのため一九〇〇年代のこの頃には、新宗教の大本教も「皇道大本」と名乗り、国柱会でも「国体論」を打ち出すようになっていった。
Ⅲ.天皇崇敬と民衆の力
こうした流れを加速させたのが、「乃木希典」である。それまでの天皇崇敬のモデルである楠木正成から乃木将軍になったのは、日露戦争での旅順攻略にて多大な犠牲を出して二人の息子も亡くなったことに世論が同情し、また明治天皇の崩御後に妻と共に殉死したことが、世論の大賞賛を招いたことにある。明治天皇の病気から葬儀に至る半年間、日本の民衆は天皇への熱狂に包まれていた。1912年のこの年、チェンバレンは「日本の新宗教、天皇教のようなものがこの時に生まれた」と述べている。そして、京都の陵墓とは別に東京に「明治神宮」をつくる動きが加速化されていく。
この流れを冷静に見て批判したのは、当時ジャーナリストだった石橋湛山だった。湛山は「何ぞ世界人心の奥底に明治神宮を建てざる」と言ってその建築化を批判し、東京市長はじめ学者、群衆にいたるまで、そうした忖度で喪の事業を賞賛するのは、喪章を押し売りする商人のようだ、と苦言を呈している。
Ⅳ.国家神道の見えない化
現在の戦前回帰の路線をつくり「国家神道の見えない化」をした論者として、優れたイデオローグである葦津珍彦がいる。葦津には『天皇 昭和から平成へ』(1989年刊 神社新報ブックス)という本があり、その中で「神聖」を要となる言葉として使い、現在の日本国憲法が「祖国への神聖感、忠誠をまったく否定している」「(君主制をもつ諸外国の憲法に比しても)国の象徴たる天皇の神聖をことさらに明記しないのが異例変則なのである」と批判している。
「日本では、遠く悠久の古代から祓いが行われ、祭りが行われて、民族の中にこの「神聖を求める心」が保たれてきた。~その祭り主こそが天皇である」と葦津は天皇の神聖という教説を述べる。この「祭りこそが古代から続く天皇の第一の任務」という説は、小林よしのりや中西輝政などかなり広い範囲で支持された。しかしこれは、近世には忘却されていた天皇を近代では復活させて、国家神道が作られたという歴史的事実を意識的に無視している。葦津の神聖天皇論で「見えない化」されているのは、戦後の宗教・政治論文で論じられた国家神道の歴史である。葦津は、80年代まで影響力のあった村上重良とその賛同者の国家神道論を批判して、それらは占領軍の方向づけに従った誤った歴史観に基づくものとして否定した。そして、国家神道とは国家の機関となった神社のことだと限定して、皇室祭祀など神聖天皇崇敬にかかわることには触れずに、皇室と神社神道(伊勢神宮中心)の一体性を回復しようとした。現状では、こうした葦津流の議論はかなり成功しているといえる。しかし一口に神道というが、その実質を担ったのは皇學館大学であり皇典講究所(後の國學院)であり、天皇崇敬に関しては神社においてではなく学校や軍隊でこそ身につく組織化がなされていたのが歴史的事実である。そういう全体を見なければ、近代の新宗教である国家神道も、また日本近代の精神史も分からないままだろう。
ここで講義は終了して、質疑応答に入りました。活発な質疑に対して島薗先生は穏やかに丁寧な応答をされて、予定時間を大幅に上回って終了しました。あらためて島薗先生には長時間にわたる刺激的でわかりやすいご講義を頂きまして有難うございました。
次回は、2月20日(木)午後6時半より、大澤真幸先生のご講義です。どうぞご参集のほど宜しくお願い申し上げます。          (スタッフ)
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