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去る3月17日(土)午後2時より、菊地大樹先生の「『吾妻鏡』と鎌倉仏教」が開催されました。第六講・最終回は「京と鎌倉、そして鎌倉仏教」をテーマに、鎌倉時代の全体の枠組みをもう一度考え、また受講者から要望のあった、「鎌倉時代に起こった基本的な事項」も併せて、鎌倉仏教のまとめに入る講義内容となりました。

講義の冒頭では、「鎌倉時代の転換期」に触れ、モンゴル戦争の後に時代の転換期が到来し、南北朝時代を経て室町時代へと移っていく過程があった事や、『吾妻鏡』の記述自体は文永の前半までの記述しかなく、記録が途絶えた50年間の研究自体が遅れていた事を指摘され、この部分の研究を補うためには、京の公家・天皇の日記や、京と鎌倉幕府とのやりとりが記載された文書も参考にし、研究を進めていく必要性を話されました。

本題となるレジュメの大綱は以下の通りでした。
1 朝廷と幕府―鎌倉時代政治史のながれ
【資料1】「大懺法院条々起請事」保元の乱(摂関家と天皇家の分裂、崇徳・後白河天皇の対立)から中世における「現代」の始まりとする考え方を示唆され、この乱によって怨みを呑み込んだまま死んでいった怨霊鎮静の為、法華三昧等による追福作善の祈祷(捨邪帰正・抜苦与楽)が行われた内容を紹介されました。
【資料2】義経の「腰越状」。義経が頼朝から腰越で鎌倉入りを拒まれ、その悲嘆に暮れた心情を、兄頼朝に弁明し、許しを懇願した内容を紹介されました。※ 源氏将軍期
【資料3】「承久の乱と北条政子」夫、頼朝が逝去し、北条政子が承久の乱の回避は困
難と判断した際、御家人を召集し後鳥羽院との合戦の士気を鼓舞した時の内容。
他、【資料4】後嵯峨天皇と宗尊親王【資料5】後嵯峨天皇一周忌供養塔婆銘参照。

承久の乱以降、後鳥羽院は遠流され、北条泰時・時頼による執権政治へと移行し、後嵯峨院は鎌倉幕府と協力関係を保つ中、更にモンゴル戦争期には、北条時宗・貞時・高時による「得宗」専制期へと移り、北条本家による「権力集中型」となった。講義の大綱としては、京の朝廷との関わりから、源実朝・頼朝・頼家の三代に亘る鎌倉幕府の体制から、北条一家への権力が移行していく過程を、詳細にわたり説明がなされました。

2 都市としての京と鎌倉
上にも挙げた、源実朝・頼朝・頼家等、の菩提を弔うために、その存在価値があった寺院として紹介をしたかったものが、大慈寺だった事を示され、幕府有縁の、鶴ケ岡八幡・勝長寿院・永福寺同様、源家にとってはゆかりのある寺院で、源氏将軍を顕彰する意味や、過去の将軍たちの魂を慰める為の意味で、大慈寺を大々的に供養していく事で、後の都市鎌倉の規模や構造にも影響を与えていったのではないのか、と示唆された。

3 鎌倉時代における仏教の展開
朝廷が修法を行う(祈祷を依頼する)際には、多くの修法を、多数の方面に並行して依頼をして、祈祷を行なえればよいという考えがありました。日蓮聖人は、「神国王御書」にその詳細を挙げられているが、『金綱集』」と一致する記述がいくつか見られることを挙げ、聖人自身が、正確な情報によって認められている事を示唆されました。
また、「本尊問答抄」についても触れられ、祈祷修法の引用についても、確かな情報をもとにその詳細を述べてられている事についても、同様に指摘されていました。

以上六回にわたり、『吾妻鏡』と鎌倉仏教 について、全ての講義が終了しました。
次回は、菊池先生による新講座、「歴史から考える日本仏教-鎌倉仏教を射程に入れて」が始まります。第一講は「山の宗教の原像」です。講義全体の枠組みでは、『鎌倉時代を生きた日蓮』を常に意識した連続講座となる予定ですので、引続き御受講ください。
新講座第一回目は、4月17日、第三火曜日6時30分 からの開始となります。
尚ご案内の通り、講座開催の曜日と、開始時間が変わっていますので、聴講予定の方はご注意下さい。4月以降の講座日程は、ホームページをご確認下さい。

(文責:スタッフ)

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