Skip to main content

3月23日(木)、池上要靖先生による講座「初期仏教研究−仏滅年代論・経典の成立−」の最終講義が、第6回「初期仏教経典は仏説か」という刺激的なテーマで行われました。講義は、まず第3回で触れた仏教経典の9つの分類法「九分法(経典、詩偈、仏弟子の前世譚、仏の前生譚、奇跡話、因縁話、喩え話、重頌、論議)」を踏まえて、「経の概念の原型を示す例文としてパーリ仏典の『大般涅槃経(遊行経)』の一節を原文で引き、中村元訳では『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)となっている翻訳文と比較しながら進められました。

仏陀がアーナンダに自らの滅後における「師」を説いたこの一節を、原文から詳しく読解して、中村訳の「教えを説かれた師はましまさぬ」はむしろ「師の言葉は終わった!」がふさわしく、また中村訳「わたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後におまえたちの師となるのである」は、「そこで、実に私の死去により、私によって説示された法と制定された戒律とが、お前たちの師である」の訳が適切であると原文から詳解、その上で「説示された法(仏陀の言葉そのもの)」と「律」と「論」が、法の久住のために記憶から経典へと記述化されたことを『大史』を引いて指摘されました。また、「経」という概念の発生については、『パラマッタ・ジョーティカー(邦訳『仏のことば註』春秋社)』を引き、なぜ多くの詩偈を集めたものが『経集=スッタ(経)・ニパータ(集)』と呼ばれたかについて、「スッタ(Sutta)」が「(経典が書かれたものをまとめた)糸紐」という意味ではなく、「su」には「良い、素晴らしい、極めて」などの意味があり、それゆえ「経」と呼ばれ、その経(仏の言葉)の集まりであるから『経集』であると説明、また仏の教説を示す「ダルマ・パリヤーヤ=法門」もすべて方便(対機説法)であり、「諸々の法(仏の言葉)」とは釈尊が対機説法する衆生との一対一の間にある真理にほかならない、と語られました。そして最後に、受講生への課題として「大乗経典は非仏説なのか?」「初期の経典は仏説なのか?」「経典は仏陀の何を伝えたのか?」「三蔵の価値とは?三宝の価値とは?」などを提示して講義を終わられました。

パーリ語読解を交えての難しい講義でしたが、その後の質疑も盛んに行われ、修了証授与の後の懇親会でも論議が続き、大変充実した講座を終えることが出来ました。遠方より毎月ご出講頂きました池上要靖先生にはあらためて心より御礼を申し上げます。有難うございました。    (編集部)

commons

Author commons

More posts by commons