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平成29年2月18日、花野充道先生の第11回目の講義が行われました。

今回は、日蓮聖人の花押を中心に講義されました。
最初に、2月10日に有楽町の国際フォーラムで開催された「第30回法華宗(本門流)教学大会」に参加した感想を述べられました。2月16日付け「仏教タイムス」に掲載された花野先生のコメントを配られて、「自由競争をするから、製品の品質も向上し、価格も下がっていく。日蓮研究も同じである。開かれた場で、自由に議論し、競争することによって研究は進展する。議論に耐えられない教団は、閉鎖主義をとって、盲目の信心を強いる。日蓮聖人の仏教は、開目であるから、各門流が切磋琢磨し、日蓮聖人の真実に迫っていくことが真の御報恩である」と話されました。
続いて、仏教用語を用いて議論する場合、その用語の定義から始めなければならない、と述べられ、例として、「体」と「用」の語を取り上げられました。一般的に、「体」は本体、本質を意味し、「用」はそのはたらきを意味する。天台教学の五重玄義では、「体」は実相の理であり、「用」は法華経の力用である。ところが仏身論では、「体」は法身の理ではなく、久遠に法身の理を証得した報身の智である。本地自行の報身が「本」、垂迹化他の応身が「迹」で、天台教学では三身の円融相即・本仏迹仏の俱体俱用を説くから、本迹不思議一となる。ところが日蓮教学は、本迹勝劣の従本垂迹を説くから、久遠の本地仏(本仏)は垂迹の諸仏(迹仏)を統合する根本仏・根源仏である。天台の円融相即の仏身論に対して、日蓮の仏身論は本仏と迹仏の勝劣を説く以上、別教的・実体的であることに注意してほしい、と話されました。
さらに、日蓮聖人の花押について説明され、山川智応氏によって提唱された、前期バン字、後期ボロン字、とう仮説が定説化されつつあるが、自分は賛成できない、と述べられました。大島仲太郎氏の見解を紹介されるとともに、祖山学院発行の『本尊論資料』に収載された各門流の本尊口伝について、その成立年代を推測され、結論として、日蓮聖人の花押は、バン字でも、ボロン字でもない、という仮説を提示されました。
次回は、いよいよ花野先生の最終講義です。法華曼荼羅が最初に説かれた『法華観智儀軌』の説を解説しつつ、日蓮聖人の宝塔曼荼羅、本尊論について講義してくださるそうです。皆さまのご聴講をお待ちしています。
なお来月は、修了証授与の後に、布施先生の受講者と一緒に、講義完了の懇親会が行われます。したがって、講義開始を5時10分に変更し、7時10分終了、続いて希望者による懇親会、という流れになりますので、お間違えないようお願い申し上げます。
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