講座「『法華経』『法華文句』講義」第40回講座報告

講座「『法華経』『法華文句』講義」第40回講座報告
2021年9月27日 commons

去る9月27日(月)午後6時半より、通算40回目で本年度前期では最後となる菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」が、オンライン実況で開催されました。今回のテキスト頁は、『法華文句(Ⅱ)』の424頁6行目「「所以者何」従り下は~」から、終わりは429頁の最後「位を用て釈するなり。」までとなります。経文では次の箇所です。

【今回の経文】 「止みなん、舎利弗よ。復た説くを須いず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一 希有難解の法なり。唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法 の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本 末究竟等なり。」

今回の講義は、「十如是」についての説明が中心になりました。十如是は、サンスクリット本にはこれに対応するものがありません。梵本の訳では、「あらゆる法を、シャーリプトラよ、如来こそが説き示し、あらゆる法を如来のみが知る。それらの法は何であるか、それらの法はどのようなものか、それらの法はどのような様態か、それらの法はどのような特徴があるか、それらの法はどのような本質があるか。すなわち、それらの法が何であり、どのようなものか、どのような様態か、どのような特徴があるか、どのような本質があるかという、これらの法について、如来だけが知覚でき、明瞭に知る」とあって、五つの疑問文になっています。 この文の意味は、(仏の身につけている)あらゆる法の内容について仏だけが知っている ということで、十如是に相当する部分は、ほとんど 類義語を列挙しただけです。

鳩摩羅什は法の範疇をより明確にするために、『大智度論』の「一法に九事あり」を参考として十如是にしたとのことです。しかし、鳩摩羅什の『法華経』の講義を聞いた竺道生の『妙法蓮花経疏』には、「本」と「末」を分けて二つに数えて「十一事縁」と解釈しているので、鳩摩羅什に十如是という意識があったかどうかは不明です。ただ、智顗の師 である南岳大師慧思が十如という整理の仕方を示したことが知られているようです。

また、梵本では五つの間接疑問文になっていますが、鳩摩羅什の漢訳でも「如是」(このような)という形容語があるだけで、具体的に仏の身につけている法の相や性や体が何であるかについては全く説かれていないことに注意する必要があります。そして、仏だけが「諸法の実相」を認識することができるならば、その「諸法の実相」を認識できれば成仏もできるはずです。しかしその「諸法の実相」の内実については、残念ながら『法華経』の経文には説かれていません。そこで、智顗は独自に「諸法の実相」の内実を明 らかにし、それを、円融の三諦説や一念三千説として表現したということです。

 

また講義では、「十如是」に関しての諸師たちの説について、次のように触れました。

【光宅寺法雲】(467-529)……「所謂諸法」は、権実の二智を表す。『実相』とは、実智の境である。一理は虚妄ではないので、実相という。四一[の境](教一・理一・機一・人一)のなかで一理だけを取りあげるのは、理は本なので真実である。そのなかに九句(如是相から如是報まで)があって、前の五句(如是相から如是作まで)は、権[智]の章を解釈となる。後の四句(如是因から如是報まで)については、実智の境を詳しく展開している。後の二句(如是本末と究竟等)については、「本末」は権智を結論づけ、「究竟等」は実智を結論づける。

【北地師】……「三乗の法には、すべて相・性・果・報・本・末があるのである」という。

【法瑤】(473-477 の間、76歳寂)……『如是』とは、その事柄が相違しないことをいう。『如是相性~』は、智慧の照らす働きを解釈している。三乗が始まろうとしていることを『相』とし、必ず三[乗]を成就することを『性』とする。発心を『体』、心にしたがってもちこたえることを『力』とし、力に作ることがあることを『作』とし、修行して果を招くことを『因』、頼りしたがうものを『縁』とし、実現することを『果』、因に報いることを『報』とする。相を『本』とし、報を『末』とし、最終的に同じく一致することを『究竟等』とするのである。

【玄暢】(416-484)……ただ仏に焦点をあわせて解釈している。『相』とは、十力のそれぞれ特徴をいう。『性』とは、衆生の機根(能力)にしたがってそれぞれ習慣とするもの。『体』とは、根性(能力・性質)が不同で、欲求も違うこと。『力』とは、禅定の別名で、心を安んじ乱れを静めるには禅定による。『作』とは、業(行為)である。『因』とは、道(覚り)を因として、涅槃に到達することができること。『縁』とは、宿命の力の境である。『果』とは、今の因が招き寄せる果は未来にあることによる。『報』とは、今の報は過去の因による。煩悩がなくなること。『本』とは相、『末』とは報である。まとめてこれに対比すると、すべて道理とそうでないことを区別する智力の境を示している。

 

以上を説明して、講義を終了されました。次回はテキスト430頁の最初からです。後期の10月からは「対面講義」が予定されています。いまはコロナ感染も底を打っている状態ですので、よほどの急変がない限り久々の「対面」となります。もちろん、移動等が御心配で参加できない方にも後で動画配信にて受講ができますのでご安心ください。では、次回もどうぞ宜しくお願い申し上げます。                 (スタッフ)