法華仏教講座・第5回講座報告

法華仏教講座・第5回講座報告
2018年2月17日 commons

平成30年2月17日、花野充道先生による法華仏教講座の講義が行われました。40名近い聴講者が集まり、終了後の懇親会も大いに盛り上がりました。

2月度の講座は、花野先生が「日蓮教団分裂の諸相」と題して講義され、日蓮聖人の滅後、日蓮教団はなぜ分裂していったか、(1)謗法厳誡、(2)折伏正意)、(3)国家諫暁、(4)本迹勝劣、(5)種脱勝劣、(6)直授日蓮、(7)不受不施、(8)本門戒壇、(9)在家主義、(10)世界平和、という10の理由を挙げて説明されました。
その中で、花野先生は、「日蓮聖人は、生涯、自分の心にひそむ臆病な心と戦ったと思います。人間は誰しも、強きをおそれ、弱きをあなずる畜生の命がありますが、日蓮聖人は、「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(『佐渡御書』)と言われています。どのような教団にあっても、まじめに仏道を考えている人は、社会の矛盾、教団の矛盾、そして自分自身の矛盾に苦悩するのではないでしょうか。社会の矛盾、教団の矛盾に目をつぶって生きていくことは容易ですが、勇気を奮い起こして、それらの矛盾に立ち向かってゆく。自分ははたして獅子王のような命で眼前の矛盾と戦っているだろうか。常に自己批判を繰り返しながら一生を終える。そのような生き方が日蓮聖人の仏道だと思っています」と述べられました。
また花野先生は、天台仏教と日蓮仏教とを対比して、「日蓮聖人は、この娑婆世界で、法華経を正義とする確信に立って、立正安国のために菩薩行を実践せよ、と言われています。日蓮聖人の正義の確信は、天台の空仏教(円融相即の円仏教)から見れば、日蓮の我執にほかなりません。空仏教からは、権力と対決するとか、立正によって安国を実現するとか、そのような発想は出てきません。日蓮聖人は自らが正義と信ずる正法を立てるために、諸宗を謗法と言って排撃しました。故に、天台仏教に比べて日蓮仏教は、独善的で、攻撃的です。日蓮教団が対立・抗争を繰り返しているのは、それぞれの門流がそれぞれの正義の我執に執しているからです」と述べられました。
続けて花野先生は、、「日蓮聖人の宗教には、もともと独善性、排他性、攻撃性が備わっています。「謗法だ」「邪宗だ」と言って、常に相手を攻撃してきた日蓮教団は、伝統的に近親憎悪の念が強く、出版活動にしても、各教団がそれぞれ別々に行っていました。日蓮宗の立正大学、本迹勝劣派の各門流、日蓮正宗、創価学会、正信会の興風談所などで、それぞれ独自に出版していて、それらが一堂に会して出版することなど考えられませんでした。このたび、はじめて日蓮教団の学者を総結集し、春秋社から『シリーズ日蓮』五巻として刊行されたことは、まさに画期的なことだと思っています」と述べられ、 今後の日蓮教団の課題として、「日蓮信奉者が、社会の矛盾を是正して、いかに民衆の幸福と国家の発展に貢献すべきか。イスラム原理主義者のテロ事件や、北朝鮮による核武装など、人類の未来を脅かす危機に直面している現在、日蓮信奉者はただ題目を唱えて、折伏をして、信徒を増やしていくだけで、よいのであろうか。日蓮信奉者は、人類の一員の自覚に立って、世界の平和と人類の繁栄のために何をなさねばならないのか」と問題提起されて、講義を終えられました。
次回の法華仏教講座は、3月17日、坂井法曄先生が「日蓮聖人と鎌倉幕府」と題して講義してくださいます。当日だけの聴講も受けつけています。是非、ご参加ください。お待ちしています。(スタッフ)

受講生の声

平成30年2月17日(土)、新宿・常円寺にて「法華仏教講座」第5回の講座が行われました。

講師は花野充道先生。「日蓮教団の分裂の諸相」という題で、花野先生の豊富な学識のほかに、ご自身の実体験を盛り込んだ講義をして頂きました。

花野先生はまず、自分が大学で学問としての仏教を修めていくなかで、信仰者としての立場から、学問と信仰の問題で悩んだ。なぜなら、学問は懐疑に基づいた客観的・批判的な研究を重んずるが、信仰は理性を超えて信じることが要請されるからである、と述べられました。

日蓮教団の宗門大学や学林などでは、日蓮教学を宗門の信仰の立場から習得すれば良いが、自分は早稲田大学で学んだために、当時の指導教授から、卒業論文の執筆時には、信仰としての日蓮を論ずるのではなく、学問としての日蓮を論ずるようにと指導された。実際に、客観的・実証的な研鑽を積んでこそ、信仰のない人達とも学問という共通の土台で日蓮を論じあうことが出来る、と述べられました。

花野先生が出家された日蓮正宗では、各寺院に昔から所属していた信徒(法華講)と、新しく精力的に布教を行っていた信徒(創価学会)があり、日蓮正宗と創価学会は、二度の対立、抗争を経て分裂してしまった。その背景には、組織・信仰観の違いや指導者層の諍い、宗教法人がもともと別であったという事情のほか、本尊を信じて、お題目さえ唱えれば救われるという、他の出家仏教教団と比べると、在家仏教的な要素が強かったからである、と述べられました。

また花野先生は、学問と信仰の問題で苦悩された経験をふまえて、社会の矛盾や教団の矛盾に目をつぶらず、眼前のさまざまな問題と格闘しながら、常に自己批判を繰り返して一生を終えるのが日蓮の仏道だと思っている。世界平和と人類の繁栄を祈る宗教が、抗争・戦争を繰り返しているのは本末転倒である、と述べられました。

その後、花野先生は日蓮教団の分裂の原因となるキーワードを挙げて講義を進められました。そのうちのいくつかをご紹介致します。

「謗法厳誡」……謗法に対して厳格な態度をとるか、寛容な態度をとるか、という問題で、日蓮教団における謗法とは、法華経以外の仏教を信仰することである。日蓮には有名な他宗批判の四箇格言があり、日蓮仏教における排他性の根拠になっている。それを厳格に守るかどうかで、教団同士で対立した歴史がある。ただ、これまで極めて排他的とされていた教団でも、世間や学者との交流を認めるようになってきており、時代の変化を感じる、と説明されました。

「折伏正意」……積極的な論破・破折による教化を目指す折伏と、寛容な態度で穏当な教化を目指す摂受との両方を用いて、衆生を教化すると説くのが天台仏教で、末法においては折伏のみが正しいとするのが日蓮仏教である。

現在は世界中で宗教間協力の重要性が主張されているが、日蓮は「邪教・謗法によって国家に災難が起こる」という考えであったため、日蓮の教説を重視する日蓮教団では宗教間協力が難しい。花野先生もかつて身延山大学で研究発表を行った際に、創価学会から「謗法与同」と批判されたという経験を語って頂きました。

天台仏教と日蓮仏教の違いについては、天台宗から日蓮宗に移った日什門流の門祖日什と、日蓮宗から天台宗に移った真迢の教義と実践を比べればよくわかると、聴講生一同に示唆を与えて頂きました。

「本迹勝劣」……法華経を前半部分の迹門と、後半部分の本門に分けたのは天台大師智顗であるが、日蓮教団の歴史において、本門を優位とするのが本迹勝劣派、迹門・本門は究極的には一致するというのが本迹一致派である。

日蓮は遺文上では本迹勝劣を主張していながら、毎日の勤行においては迹門の方便品と本門の寿量品を読誦していたため、後に解釈上の差異が生じる原因となった。日興は「迹門は所破のために読む、読んで捨てるのだ」と言い、日向は「迹門を読むのは、本迹は究極的には不思議一だからだ」と言った。こういう教義解釈上の問題が分派の原因になっているために、われわれは日蓮自身の教義を探究しなければならない。門流間の宗派対立を超えて、天台教学と日蓮教学はどう違うのか、天台教学や日蓮教学における成仏や仏とは何なのか、を一緒に考える必要がある、と述べられました。

さらに、円教の円融相即を重視する天台と比べて、日蓮の教えは国主が正法に帰依することによって安国が成就するという、正邪を区別する考えである。また、天台仏教においては、本仏と迹仏は円融相即して不思議一であるが、日蓮仏教では本仏と迹仏の勝劣を論じる。その本仏を、久遠実成の釈尊とするのか、久遠元初の本仏とするのか、一仏二名の一仏とするのか。しかし、このように根本の一仏を立てる教義は、「仏教に非ざる基体説だ」という批判が起こる、と述べられました。
また、空仏教は自分が止観や禅定を修して空を悟らなければならないが、日蓮仏教は救済仏である本仏に帰依して、お題目を唱えることにより、凡夫が凡夫のままで救われる、という教義である。このような日蓮仏教の論理を、仏教思想史上にどのように位置づけるべきか、唯識思想や如来蔵思想、天台教学や華厳教学などと対比しながら考察すべきである、として、一層の教学の研鑽と議論が必要であると述べられました。

花野先生の講義は内容が多岐にわたり、ここでは概要といえどもご紹介しきれません。先生のこれまでの激動ともいえる人生に基づく体験と、日蓮教団として乗り越えなけれならない多くの問題について、多様な観点を示して頂き感謝申し上げます。誠に有難うございました。

(受講生)