「『吾妻鏡』と鎌倉仏教」第4回講座報告

「『吾妻鏡』と鎌倉仏教」第4回講座報告
2018年1月20日 commons

平成30年1月20日(土)『吾妻鏡と鎌倉仏教』第四回講義は「都市鎌倉と天台宗」と題して、前回に続き菊地先生から
御講義を頂きました。講義の冒頭、菊地先生は、『資料を見直すうちに、今回の本題までには届かないと思う、』と述べ、
内容を一部変更し、『源 頼朝の、初期から中期にかけてスポットをあてていきたい、』との説明がありました。

先ず始めに、1250年前後の都市鎌倉の宗教施設の配置と、運営状況についての説明があり、鎌倉時代は凡そ140~50年間であったが、20年も経過すると、次々に時代が移り変わっていく様相があった事や、また鎌倉時代は政治史的には三期に分けることができる一方、宗教史的には時代を四期に大別するので、一期を30~40年間として分別されるとしました。
源平争乱記には、専修念仏が精神的救済の拠り所になる一方、武家政権の樹立後には、これ迄の戦に明け暮れ、所領を守ることや、また戦による殺生によって、その罪悪感からの解放を宗教に求めるだけではなく、頼朝自身が為政者としての自覚に立ち、自らが国を統治していく為の宗教との関わりについて、変化をしていく過程に差し掛かっていったと説明がありました。

具体的には、鎌倉幕府が政権を運営していく中の一つとして、為政者による宗教への関わりと『幕府による祈祷』体制の構築を行っていく中で、当初は頼朝や北条政子、それに従っていた後家人などが、個人的に関係のある僧や神主たちに宗教行事を依頼していたが、国家の意思として、宗教的行事を行っていけるような枠組みを作っていきたいという考えが明確になり、例えば祈祷や法要等を修する宗教者の人選は、鎌倉の中だけでは人員の確保は不十分だったので、当時の念仏・真言師の他、陰陽師、神主を、京都より取り込んでいく必要があったとのこと。

第一章では、幕府と、天台宗の関係。
将軍をどの様に護持して行くのか。その方法として各宗派山門、寺門の天台宗と、真言宗の代表により、観音菩薩にたいして、持ち回りで祈祷を行っていた事例を挙げられ、当時は鶴岡八幡宮が鎌倉の宗教界の中心的な役割を担っており、
八幡宮はもとより神社であるのに、中世では「八幡宮寺」とも言われて、後には『寺』として認知されおり、実質の運営は幕府の命により天台宗から別当と、供(ぐ)僧などが任命され、天台宗がその指揮の中心となっていたようです。

また、『鎌倉時代は、園城寺派が占めていた、』という訳ではないその理由として、鶴岡八幡宮の初期には、真言宗仁和寺派の『 定 豪 』が、幕府からの後援により出世し、鶴岡八幡宮の別当職に就き指揮を執っていた時もあり、各派の僧侶によって祈祷が営まれ、その後鎌倉中期までは園城寺派がその指揮を執っていく様になっていった。その背景にあるものとしては、後白河院が智証大師円珍「天台寺門宗(三井園城寺派)」を強く支持していた事を指摘され、その為園城寺を厚遇して比叡山延暦寺「山門派(慈覚大師円仁)」に対して言いがかり等をするという様な背景もあったことを挙げられました。

菊地先生は、今回の講義依頼をきっかけに、吾妻鏡を再度読み込んでいくことで更なる研究課題の発見があり、鎌倉仏教の中心にあった鶴岡八幡宮が、室町へと時代が移るにつれて、研究内容の幅広さについて、『いい分野を見つけてしまった!』と本音が出る一方、『吾妻鏡は単に時代にあった出来事を書いているだけではなく、その背景やドラマを盛り込みながら書かれている、然しその反面、吾妻鏡の作者による主観が色濃く反映されていることある、』と指摘をされた上で、さらなる研究と、あわせて文献や記録などの精査の必要性を述べられました。

以上、講義の冒頭を少し纏めてみましたが、今回の講義では、天台宗の慈覚・智証大師両派の対立が根強くあった事は、平安・鎌倉・室町時代へと移りゆく中で、基礎的な事実として理解しておく必要があると思いました。また当時は僧侶に対して与えられる『 階位 』は、現在の様に各諸山や門派ごとに、管長や大僧正の上位階から与えられるのではなく、国からの職責として幕府から公式にその階位が与えられること、また上にも述べたように、階位を授かる為には、「公人からの後押し」や、「水面下では色々な根回し」などがあったと話されていました。

講義終了後の質疑応答では、坂井先生より心清水八幡宮での記録(塔寺八幡宮長帳?)の例を挙げ、「宮がた」は、僧侶が行った読経の内容や布施等の記録を拝見した事を披露され、「どうがた」と「みやがた」の関係についての質問に、菊地先生は、『八幡宮は石清水八幡・宇佐神宮・鎌倉鶴岡では、僧侶が祈祷を仕切っていた』との補足がありました。
布施先生からは、日蓮聖人の頭文字である 『日文字』について質問され、『日蓮聖人の在世以前にも日文字を名乗る人がいた事については、すでに平安時代にもそのような人物がいた、』事を補足されていました。私の印象では、日蓮聖人の用いた『日文字』の意義と、その以前に『日文字』を名乗る人物とでは、また異なるの意味があると思うので、機会があれば調べてみようと思いました。その他2名の聴講生からの質問があり、大変充実した時間を過ごせました。
次回は2月17日 14時からの開始となります。続いて17時からは、花野 充道 先生より『日蓮教団分裂の諸相』の講義が開催されます。 日興門流の『僧侶』であった先生御自身の実体験や、さらに独自の観点からこの問題の本質について、鋭く切り込んでいく様な、大変熱のこもった講義になると思いますので、御都合のつく方はぜひ当日受講をお勧めします。
(文責:スタッフ)